マンガ研究 vol.2
2002年10月4日発行
表紙 長谷邦夫
研究論文
雨宮俊彦
マンガにおける人物のデフォルメ表現についての心理学的考察
押山美知子
手塚治虫「リボンの騎士」論 ―<男装の少女>の誕生
中澤潤
マンガ読解過程の分析 ―マンガ読解力と眼球運動―
宮本大人
ある犬の半生 ―『のらくろ』と<戦争>―
研究ノート
岩下朋世
岡本綺堂「白髪鬼」から高橋葉介「白髪の女」へ ―文学テクストのマンガ化について
高橋徹
あすなひろし研究に向けてのノート(1) ―あすなワールドを鳥瞰して
長谷川康子
少女マンガにおける重層化した意識表現 ―高野文子『黄色い本』と日本語文法―
増田のぞみ
拡散する時空 ―コマ構成の変遷からみる1990年代以降の少女マンガ
論説
村上剣十郎
いそっぷ社「日本人と天皇」
報告
吉川学洋
中国における海賊版日本マンガについての考察
笠間直穂子
漫画のメカニズムを叙述する
レビュー
増島大樹
『マンガの社会学』書評
雨宮俊彦
マンガにおける人物のデフォルメ表現についての心理学的考察
<要旨>マンガにおける人物のデフォルメ表現について、心理学的考察がなされた。1.では、人物の非写実的な図式的表現が自己感の投入をうながすというマクラウドの主張が紹介され、これがカリカチュアにはあてはまらないことが指摘された。2.では、心理学における平均顔とカリカチュアの研究が紹介され、平均顔=美の仮説が、カリカチュアにマイナスの評価がともなうことの理由となりうることがしめされた。3.では、たんなる平均からの逸脱ではない、デフォルメ表現の基準として、三つの段階があることがしめされた。一番目が、幼形刺激、大人顔―子供顔、サイズシンボリズムなどの進化的に形成された内的基準である。二番目が、動物などへの類似を強調した比喩表現である。三つめが、文化的慣習としてのステレオタイプである。この三つの基準は、自然的基盤と文化を連続したものとしてあつかう、感性認知記号論では、段階的で関連したものとして位置づけられる。
押山美知子
手塚治虫「リボンの騎士」論 ―<男装の少女>の誕生
<要旨>1953年の『少女クラブ』1月号(講談社、第三十一巻第一号)より連載が開始された手塚治虫「リボンの騎士」は、日本における少女向けストーリーマンガの第一号である。この作品のヒロイン・サファイヤは、生まれながらに「女の心」と「男の心」を併せ持ち、王女でありながら表向きには王子として騎士の装いを身に付ける、〈男装の少女〉という極めて特殊な設定を持つキャラクターであった。
性的側面において両義的性格を備えた〈男装の少女〉サファイヤとは、一体どのようなイメージを備えたヒロインだと言えるのか。五〇年代前半という時代を背景に、性差はどのような形で描出されたのか。
本稿は、〈男装の少女〉サファイヤを構成する表象記号の組み合わせについて検証を行うことで、サファイヤによって示される性差と「性別越境」、及びそのヒロイン・イメージの明確化を試みたものである。
中澤潤
マンガ読解過程の分析 ―マンガ読解力と眼球運動―
<要旨>マンガ読み頻度の多い子と少ない子(いずれも中学1年女児)のマンガ読解の基礎能力、マンガ読解力、マンガ読解時の眼球運動を検討した。マンガ読み頻度の多い子は少ない子に比べ、マンガ読解の基礎技能力のうち文脈理解力が高く、マンガ読解能力が高かった。マンガ読解過程の眼球運動ではマンガ読み頻度の多い子はマンガのコマ配置に応じた読みパターンを示しコマや吹き出しの見逃しが多かった。マンガ読み頻度の少ない子はランダムな視線の動きが多く、吹き出しの文への注視が多く文字的な情報からストーリーの読みとりを行っていることが示唆された。両者のマンガストーリーについてのスクリプトの有無がこのような差異をもたらした可能性を考察した。
宮本大人
ある犬の半生 ―『のらくろ』と<戦争>―
<要旨>田河水泡の『のらくろ』は、昭和戦前戦中期を通じて、最大のヒットを記録した子供向け物語漫画である。本論は、この作品について、作品の中での、〈戦争〉の描かれ方と作品を支える基本的な世界観とに着目しながら、その変容の過程を分析し、この作品の漫画史上での位置付けを再考しようとするものである。
11年にわたって発表されたこの作品は、昭和12年に起こったいわゆる「支那事変」に便乗する形で企画された単行本三部作以後、その世界観を、「現実的」、「合理的」なもの変化させている。これによって、作品内に、後戻りのきかない時間と、主人公さえも死にうるのだという可能性が、導入されることになる。これは、従来、戦後になって物語漫画に持ち込まれたと考えられてきたものであった。
岩下朋世
岡本綺堂「白髪鬼」から高橋葉介「白髪の女」へ ―文学テクストのマンガ化について
<要旨>岡本綺堂の怪談「白髪鬼」と、そのマンガ化である高橋葉介「白髪の女」を「幻想性」という点に注目して読み、両者に於けるその違いを考える。
マンガ化に際しての「白髪鬼」からの変更、省略された描写からは、一人称の語りのマンガによる再現、キャラクターの識別と言った、文学テクストのマンガ化に関する様々な問題を見る事が出来る。「白髪の女」ではそれらの問題に対する様々な工夫が施されているが、やはりそこには限界があり「白髪鬼」の持つ「幻想性」が「白髪の女」で完全に再現されているとは言い難い。だが「白髪の女」では、言葉による情報を中心とした物語内容の領域と、図像を中心とした視覚的効果による表現の領域との間に差異を生じさせると言う方法で、文学テキストでは表現し得ない「白髪鬼」とは異なった形の「幻想性」を獲得している。
高橋徹
あすなひろし研究に向けてのノート(1) ―あすなワールドを鳥瞰して
<要旨>本稿は先年亡くなった漫画家『あすなひろし』について、今後行われるであろう様々な視点での研究に向けてのノートである。
1960年代初めのデビューから1980年代終わり頃まで、少女誌、青年誌、少年誌など非常に広範なジャンルで活躍し、流麗な画と多彩かつ魅力的なストーリーで数々の人々の記憶に残る作品を残した作家である。本稿は、ご遺族のご協力とインターネットを通したファン同士の交流そして残された膨大な作品から作成した、体系的な研究論文目次案であり、今後の様々な方々による研究・評価のきっかけとなることを期待して記した。
項目は、
1 作家について(経歴等)
2 作家としての特徴(作品の綺麗さ、絵柄・構図の独創性、広範な作品ジャンル、漫画表現技法の発明者、他)
3 作品マップ、作風の変化
4 今後の考察の方向
としており、『あすなワールド』を鳥瞰できるものとした。
長谷川康子
少女マンガにおける重層化した意識表現 ―高野文子『黄色い本』と日本語文法―
<要旨>日本の文法学者・時枝誠記は、詞辞分類を用いて各種のメディアを比較した。素材の表現である詞は意味内容を表し、「てにをは」の辞は気分情緒を表現する。時枝は、文章は絵画と音楽のできないことを表現できるすばらしいメディアであるが、継時的に読むしかないため、同時に並行して起きている全体を一度に理解することのできないメディアであるといった。マンガはそれができるメディアである。「花の24年組」と呼ばれる日本の少女マンガ家たちは、1970年代から80年代にかけて重層している意識を表現する方法を発展させた。「24年組」の影響を受けた高野文子が1999年に発表した「黄色い本」には、同時に並行して起こるできごと全体を読者に一度に読ませる工夫など、非常に実験的で斬新な表現が用いられている。高野文子の「黄色い本」は、マンガが重層化した意識を表現することができるメディアであることを示すよい例である。
村上剣十郎
いそっぷ社「日本人と天皇」
<要旨>1998年10月~2000年2月まで週刊金曜日に連載され、2000年12月にいそっぷ社から刊行された雁屋哲原作、シュガー佐藤漫画による「日本人と天皇」について、その内容の紹介と共に、漫画として発行された現代的な意味についての考察を行った。その中で、両氏の啓蒙への勇気を讃えると共に、本編中の原画を参考資料として添付した。
吉川学洋
中国における海賊版日本マンガについての考察
<要旨>中国大陸での海賊版日本マンガの特徴と分布、および筆者の見解を述べる。
95年から99年の中国での海賊版日本マンガの出版状況は大変深刻で正規版を探すほうが困難である。また、海賊版は日本で売られているものと大半は書式が異なる。大きな特徴の1つに翻訳の改竄があり、一部のタブーについては例外なくあてはまる。出版拠点については沿岸部から内陸部、都市部から農村部に移る傾向がある。将来も地域格差が大きいため海賊版はなくならない。
笠間直穂子
漫画のメカニズムを叙述する
<要旨>本稿はフランスで刊行された漫画理論書、ティエリー・グロエンステーン『漫画のシステム』の書評である。
著者グロエンステーンはベルギー生まれ、若くから編集者、批評家等として漫画の世界に関わり、昨年までフランス国立漫画・画像センター附属漫画博物館の館長を務めた。そのかたわら大学に入り直して書き上げた博士論文の一部を改稿したのが本書である。
美術史・映画理論・思想など幅広い著作を参照しつつ、著者は、内容の違いを超えて漫画という形式を成り立たせている基本的性質を「複数の図像の相互関与による物語の生成」という点に見る。そして、この「コマによる物語」が実際どのように機能しているかを、一方で空間的側面、他方で時間(物語)的側面に整理して叙述する。
多様な実例を引きながら、表象手段としての漫画の豊かさを示すことに著者は成功している。日本漫画をヨーロッパ文化圏漫画と比較する上でも、本書は有用だろう。
増島大樹
『マンガの社会学』書評
<要旨>本稿は『マンガの社会学』を、社会学の視点からどのように評価できるかを中心に論じた。社会学によるマンガ分析の方法論に関しては、これまで多くの問題点が指摘されてきた。その中心は、諸実践を特定の社会的文脈から演繹的に説明する還元論的方法、もしくはそうした概念自体への批判であった。なぜならそれは、文化の「場」の社会に対する自律性を否定する傾向を持つものであったからである。本著において強調された、マンガの「場」における諸実践の固有性と多様性は、それを乗り越える可能性を内包するものである。つまり、マンガ文化を社会の隷属的立場に置くのではなく、そこでの諸実践が、社会編成への能動的関与も可能であることを示しうるということである。これらは「社会」という説明因子を、マンガ文化を理解する上で、いかにして扱うかというマンガ論で長年議論されている問題に対しても、より柔軟な形で寄与するものと考える。本著はそうした意味で、社会学にもマンガ論にも新たな視角を提供する可能性を秘めたものと考える。