カトゥーン部会2016年度第1回研究会
- 日時:
2016年12月10日(土)15:30~18:30
開始時間にご注意ください。 - 場所:
早稲田奉仕園アイビーハウス2階
(〒169-8616 東京都新宿区西早稲田2-3-1)
アクセスマップ:サイト内の「印刷用PDFファイル」を参照
Tel.:03-3205-5411 - 報告者:足立加勇 氏
- 論題:
①「キャラクターの描き方本から読解する、人間を描くこととキャラを描くことの違い」
②「キャラクターの描き方本から読解する、人間を描くこととキャラを描くことの違い―カトゥーンとMANGAの間にある断層を考える—」 - 報告・研究会内容:
報告者の足立氏は、4の①の論題で「日本アニメーション学会秋の研究集会@新千歳」(以下「新千歳報告」とよぶ)において、報告をした。今回、まず新千歳で報告された内容を紹介し、続いてカートゥーンとマンガとの違いを意識した4-②の報告(以下「部会報告」とよぶ)を行った。「新千歳報告」では、アニメにおけるキャラクターとは人間を表現したものと、キャラクター文化の蓄積からつくられた架空の存在を表現したものの両方をさし、現在では後者の、架空の存在を表現することの意味が強くなっているとする。これは現実の観察やデッサンよりもアニメキャラクター文化で蓄積された美意識(願望=「ドリーム」)が優先されることを示している。それにより、顔の表情が固定化され、それ以外の要素(たとえば髪型)でキャラクターの属性が区別される。その個々の属性を見ることでキャラクターに起きる物語が連想される。「部会報告」では,ストーリー・マンガの特徴についての先行研究から,同じ顔は二度描かれない,同一の顔を際限なく描ける,の2点を引出した。前者は大塚英志の議論のように、記号でできたキャラクターが身体性を獲得したときに,読み手が感情移入できることに発展した。後者からは、「キャラクター」と「キャラ」の峻別(伊藤剛)といった議論に展開された。この議論では、読者が描かれた無数の顔を同じ人物とみなすことのできるものを「キャラ」とよび,その「キャラ」は、絵で描かれ、固有名で呼ばれ、「人格のようなもの」によって存在感を持たせるものである。この「キャラ」の強度が強い時、――様々な人物が描くことのできるキャラクター(人格をもった身体)を持つ時――プロトキャラクター性を有し、どのような画風でも、髪形や服装といった、いわば作品人物の周辺要素によってキャラクターを描くことができる。このように「キャラ」は身体性を欠いたまま感情を媒介あるいは生成して、読者の感情移入を可能にする,とした。ここから足立氏は、カートゥーンの諷刺の対象は現実の事象・人物であり、現実を、その本質をありのままに描く願望が、現実と作品の関係を無視できない点であるとする。それに対して、「キャラ・キャラクター」分離論では、(社会的)現実とマンガとの関係を棚上げした議論であるとする。カートゥーンとMANGA(現代のマンガ)との断層が、この現実の問題へのかかわり方の違いにあり、それがマンガ論において論点として顕在化すらしない(MANGA的認識が当然視されている)ところに問題があるとする。
足立氏の報告について多くの多様な視点からの議論がなされた。参加者の議論では、マンガ理解を認知心理学や脳科学の知見と結びつける議論も提示されたが、あくまで、この議論はマンガと社会的現実とのかかわり方が論点となっているので、社会学的要因や変数についてーー文化レベル、所属社会集団レベルの議論――をすべきであるという指摘がなされ、足立氏が提示したマンガ表現の諸特性が、どのような社会集団や文化や時代状況と係わっているかを改めて考察することの必要性を再確認するにとどまった。
カートゥーンが事実の描写を似顔絵から導こうとしたのは否定できないけれども、政治・社会事象そのものを、似顔によらずに表現するカートゥーンも存在する。MANGAがキャラクターを描くことから身体性の喪失(身体性がなくても表現できる)へ進んだのに対して、そもそも、カートゥーンには身体性を欠いた技法が存在しており、しかしそれが現実性を欠いたものには展開しなかったことーー反面読者の大幅な減少と乖離を招いた――を検討すべきであろう。